乃梨子が藤組に、瞳子が松組に訪れてから一体どれだけの時が経っただろう。もしかしたらほんの数分?それとも十数分?

「………………」

 ただ一つ言えるのは当事者にとってこれまでの時間は何時間にも感じるぐらい時が経つのを忘れていただろう。

「祐巳さま………」
「………自分で蒔いた種とは言えよく頑張ったよ。それは私が認めてあげるわ」

 由乃から労いの言葉を貰えるとは思わなかったが素直に喜ぶことは出来なかった。それは引掻かれた頬の痛みだからではない。

「でも根本的な解決はまだしていませんから」
「それでも私たちはここまで踏み込む事は出来なかったわ。口惜しいけど完敗よ」

 未だに心の整理の付かない祐巳はこちらを見ようとはしない。だが伝えるべき事は事実は一通り伝えた。後は祐巳が自身の気持ちにどう決着をつけるか、まさに人事を尽くして天命を待つという状況である。

「………由乃さん、瞳子ちゃん、決めたよ」
「「祐巳さん(さま)………」」
「私は祥子さまに会いに行くわ。瞳子ちゃん、案内お願いしてもいいかな?」

 不安に感じないわけが無い、迷いが無いわけが無い。だが祐巳は敢えて真実と向き合う事を選んだのだ。

「は、はい。勿論です!」
「由乃さん、頑張ってくるよ」
「うん、行ってらっしゃい」

 事故以来誰もが踏み出す事の出来なかった一歩、それを祐巳は踏み出そうとしるのだ。そしてそのきっかけとなったのが友人であるはずの由乃や志摩子ではなく、瞳子と乃梨子なのだ。だからこそ本当は一緒に行きたい気持ちを抑え、今回だけは素直に瞳子に任せて祐巳を見送ろうとしたのだ。

「じゃあ先生には適当に言って誤魔化して………」
「祐巳っ!!」

 だからこそ由乃は、そして瞳子は彼女の登場を歓迎する事は出来なかった。

「桂さん………」
「貴女たち、祐巳に何を吹き込んだのよ!」
「桂っ!貴女の方こそ祐巳さまたちの邪魔をしているんじゃないよ!!」
「乃梨子ちゃんっ!?」

 祐巳、瞳子、由乃、桂、乃梨子………事件の当事者が最後の決着を付けるかのように集い始める。

「祐巳さま、あの………」
「分かってる、これも自分で蒔いた種なんだよね」

 そして最後の幕が今、開けようとしていた………






 降り止まぬ雨






「もしかして全て思い出したと言うの?」
「ううん、一度は思い出しかけたんだけどね。でも肝心な所はさっぱりだった、乃梨子ちゃんの時と一緒だね」

 そう、結局乃梨子が打ち明けた時同様に祐巳は真実を受け止める事は出来なかったのだ。




…………………………



………………………………………



………………………………………………………





『イヤ、イヤ、イヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!』
『祐巳さん!?』
『祐巳さま!?』

 あの時の乃梨子同様に錯乱する祐巳に由乃は何も出来ないでいた。だが瞳子は違っていた。

『祐巳さま、目を背けないで下さい!』
『瞳子ちゃん!?』
『今言ったことは全て真実なんです!でも祐巳さまは私を恨んで良いんです、いえ全て私の所為にして恨んで下さい!』

 錯乱する祐巳を必死に宥めようとする瞳子に時には振り払い、時には爪をたて、まるで積年の恨みを晴らすかのように瞳子の体に一つまた一つと傷を付けて行く。

『イヤ、来ないで!これ以上私を苦しめないで!!』
『お願いします、祥子お姉さまを見捨てないで下さい!!』

 暴れる祐巳、傷付きながらも祐巳の傍を離れようとしない瞳子。そんな二人を前に不覚にも由乃はどちらを止めるべきなのかを判断しきれず、ただ黙って立ち尽くすしか出来なかった。

『祐巳さま!祐巳さま!祐巳さま………』

 やがて祐巳の抵抗が止み始め、鬼気迫る形相から平静さを取り戻し始める。

『あれ、どうして私ここに………』
『ゆ、祐巳さま!?』
『祐巳さん!?』

 乃梨子から話は聞いてはいたが、目の前でつい先ほどの事すら忘れられるとかなり堪えるものがある。だが、

『そっか、そう言えば瞳子ちゃんに呼ばれてここへ来たんだよね』
『え?』
『何もかも信じれなくなって、視界に映るものから目を背け耳を塞いだ私に必死に呼び止める声………瞳子ちゃんだったんでしょう?』

 確かに全てを受け止める事は出来なかったかもしれない。だが全く無駄ではなかったのだ。

『ゴメンね、私が弱いばっかりに瞳子ちゃんに辛い思いをさせてしまって………』
『祐巳さま………』
『まだちょっと混乱しているからちょっと整理する時間をくれないかな。そんなに時間は掛けないから』




………………………………………………………



………………………………………



……………………





「でも瞳子ちゃんの話してくれたことが嘘じゃないって事だけは理解………ううん、確信したわ」
「ゆ、祐巳さん、でもね………」
「桂さんが私の事を心配してくれているのは分かるわ。でもこれ以上私の所為で誰かを傷付けたくないの」

 桂が祐巳を騙していた事は祐巳自身薄々気付いていた。だが祐巳にとって桂は、辛いことから目を背けていた祐巳には桂と過ごす非日常的な日々は居心地が良過ぎた為今まで深く追求はしなかったのだ。

「ゴメンね、桂さんの事利用しちゃって………」
「嫌………」

 だが祐巳はどんなに辛くとも現実から目を背けない覚悟をしたのだ。例えどんなに辛くとも

「また祐巳さんが遠くに行ってしまうなんて私は嫌!お願いだから私を選んでよ!私は祐巳さんの為なら何でも捨てれる!祐巳さんだけを愛し傍にい続けることができる!!」
「ちょっと貴女………」
「由乃さんは黙ってて!」
「ゆ、祐巳さん」

 止めに入ろうとした由乃を制し、祐巳は桂の傍へと歩み寄る。

「本当に私だけを愛し傍にい続けてくれるの?」
「勿論よ、祐巳さんがいるなら絶対浮気心なんて持たないわ」
「その為に全てを捨て、私に生涯を捧げると?」
「ええ、祐巳さんを幸せにして見せるわ」

 パンッ!

「え?」

 乾いた音と共に伝わる頬の痛み、祐巳に叩かれたと理解するのに時間がかかってしまう。

「全てを捨てれるなんて簡単に言わないでよ!」
「ゆ、祐巳さん、私はただ………」
「桂さんにだって桂さんを大事に思ってくれる人がいるのに、そんな人たちを捨ててまで私を選ばないでよ!!」

 女の子なら誰しも大切な人が自分だけを見て欲しいと思うもの、だが例え当人同士がどう思おうと世界は二人だけで構成されているわけではない。ましてや不完全な記憶とは言え取り残される側の人間だった祐巳には桂の愛情表現は到底許される事ではないのだ。

「桂さんにだって家族やお姉さまがいるし、テニス部や藤組には友達だっているよね?私はそういう人たちを一時の感情で捨てれるような人の傍にいたくないよ」
「で、でもそうやって割り切れない態度を取られたから祐巳さんは傷付いたのよ」
「うん、そうだね。でもね、そうやって割り切ったところでそれが本当の愛なのかな?そうやってうやって全てを捨てないと貫けないのが愛なのかな?」

 記憶が完全に戻ったわけではないが漠然と理解できた、今の桂とかつての祐巳自身が同じようなものだと言う事を

「それに『私は貴女を想いこれだけのことをしてあげれる。だから貴女も同じようにして欲しい』こうなった時点でそれはもう愛じゃなく独り善がりな押し付け、もしくはただの利害関係じゃないかな?」
「私は別にそんな事………」
「そう言っているようなものだよ。だって今の桂さん私だけで周りが見えていない。ううん、桂さん眼に映るのは桂さんが望む理想の私、結局は私さえも見えていないんじゃないの?だから都合の悪い事には耳を傾けないし見ようとしない、だから今ここで私が桂さんに賛同しないのは何かの間違いだと思っている」

 結果、自分の事で一杯一杯になり相手を気遣う余裕がなくなってしまう。だからこそ起きてしまった過ちが今の祐巳の現状なのだ。

「桂さん、私は少しだけ大人になろうと思う。由乃さんや瞳子ちゃん、志摩子さんに乃梨子ちゃん………周りを見渡せばこんなにも私を心配し支えてくれる人がいる、そんな人たちに思いに応えれる人に私はなりたい」
「ゆ、祐巳さん………」
「だから桂さん、少なくとも今の私は桂さんの想いには応えれない。私は自分のケジメをつける義務があるし、これ以上みんなを待たせるわけにはいかないから」

 祐巳の決意は固い、それはこの場にいる誰もが抱いた共通の認識である。だからこそ殆どの者は今の祐巳の姿に一安心し、未来に確かな希望を持つ事が出来た。だが彼女だけはそうは思えなかった。

「………めない」
「桂さん………」
「認めない!こんな結末、絶対認めない!!」

 祐巳が祥子の妹になって以来決して打ち明ける事の出来ないものと諦めていた想い、それが数奇な巡りあわせで叶いかけていたのだ。そんな中祐巳が立ち直ったから『はい、さようなら』で納得しろと言うのは無理な注文である。

「私にはもう祐巳さんしかいないの!お願い、私にこんな手を使わせないで」
「か、桂さん!?」
「ちょっと貴女、何考えているのよ!!」

 桂の手にはカッターが握られ、その刃は祐巳へと向けられていた。そして鬼気迫る表情はとても正気の沙汰とは思えなかった。

「私だってこんな事したくないの。祐巳さんが我侭を言わなければ直ぐにしまうわ。でも………」
「いい加減にしなさいよ!そんな物持ち出して祐巳さんをどこまで追い詰めれば気が済むのよ!!」
「祐巳さんを追い詰めたのは貴女達の方じゃない!貴女達の気紛れで祐巳さんがどれだけ追い詰められたと思っているのよ!」
「そ、それは………」

 敢えて言い訳をするなら祐巳が追い詰められていた時、由乃も志摩子も自分たちの事で手一杯で祐巳のことを気にかける余裕はなかった。だが仮にもし気付いていたとしてもどうしようもなかっただろう。あの時の祐巳にも周りの優しさを素直に受ける余裕は無かったのだ。

「大丈夫よ、祐巳さん。例えもしこれで祐巳さんが傷物になっても私は偏見無しに愛する事が出来る、例えもしこれで最悪の事態になったとしても見方を変えればこれで祐巳さんが他の人に騙され裏切られる事は無くなる。私の中で永遠に幸せになれる………ね、どれをとっても祐巳さんが幸せになれることに変わりは無いわ」
「く、狂ってる………」
「今先生を呼んできます!」
「桂さん、祐巳さんには指一本触れさせないよ。これでも剣道部員なんだから!」
「竹刀も無いのに随分強気ね。それに由乃さんが剣道部に入って間もない、体力作りすら満足に出来ないことを私が知らないとでも?それに先生が来るまでに全て終るわ」

 狂気に彩られた桂ではあったがその指摘は的確だった。この場にいる中で体育会系の桂より体格の良く体力のある者は無く、文科系の瞳子やようやく体力作りを始めた由乃では今の桂を止める事は不可能である。

「祐巳さんも周りを巻き込みたくないよね?うん、分かっているわ。だからそんな所にいないでこっちにおいで」
「いい加減に………」
「………仕方ない、よね。瞳子ちゃん、道を空けてくれる?」
「ゆ、祐巳さま!?今のあの人は危険です!」

 止めに入る瞳子と由乃を素通りし、祐巳は再び桂の傍歩み寄る。

「祐巳さん、分かってくれたのね」
「うん、今の桂さんに何を言っても無駄なんだね。だから、そのカッターを使えばいいよ」
「「ゆ、祐巳さん(さま)!?」」
「いいの?私はそれでも構わないけど祐巳さんはきっと物凄い痛い思いをするよ」

 動転する瞳子と由乃と違い桂は至って普通、何故なら桂はカッターを用いる事に何の躊躇いも無いのだ。

「例え今口裏を合わしてこの場を収めてもいつまた今日みたいにカッターを使うか分かったものじゃないからね。だったら今この場で最初で最後にして!」
「素晴らしいわ、祐巳さん。その覚悟に免じてこれで最後にするし、命だけは勘弁してあげるわ」
「余計な気遣いはいいわ、それよりどうせやるならここを狙ってくれるかな?確かここが頚動脈のはずだから」

 そう言って桂のカッター持つ手を頚動脈の方に導く。

「な、何言っているんですか祐巳さま!?」
「自棄にならないでよ。祐巳さんに何かあったら………」
「そう、祐巳さんは私と何人にも犯されることの無い二人だけの世界が望みなのね」
「桂さん、それは違うよ」

 首元に刃物を突きつけられる恐怖に必死に堪えながら、それでも祐巳はハッキリと桂に拒絶の言葉を述べる。

「もし死んでも魂が残るとするなら私は桂さんじゃなく祥子さまの傍に行く」
「な、何言っているの、祐巳さん」
「今まで迷惑をかけてきたお詫びを生きている内に出来ないならせめて死んだ後で何度も謝るわ。例えそれが自己満足に過ぎないと分かっていてもね。だから結局今と何も変わらない、今の桂さんは私を傍に置く事なんて出来ないわ」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 ザクッ!!

「っ!!」

 祐巳からこうもハッキリと拒絶され、否応無しにも残酷な現実を突きつけられる。そしてそれは桂にとって最後の箍が外れた事と同意語、桂は手を振り上げそのままカッターで祐巳を斬りつける。

「ゆ、祐巳さん!?」
「どうして!どうして祐巳さんは私のものになってくれないのよ!!」
「こ、こんなもので桂さんは満足なの!?私はまだピンピンしてるよ!」

 不幸中の幸いなのか、斬られたのは頚動脈ではなく頬だった為命に別状はない。だが今の桂を前にこれで終るわけが無いし、祐巳の挑発するような発言でますます熱くなる。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ゆ、祐巳さま!!」

 ザクッ!!

「あああっ!!」

 二度目の刃はとっさに二人の間に割って入り祐巳を庇おうとした瞳子の腕を切り裂く。

「と、瞳子ちゃん!?」
「ま、また貴女なの………私と祐巳さんの邪魔ばかりして、退きなさいよ!!」
「い、嫌です!これ以上祐巳さまが傷付く位ならいっそ私が………」
「だったら貴女から先に死になさいよ!!」
「駄目っ!!」

 瞳子目掛けて振るわれた三度目の刃は逆に瞳子を庇おうとした祐巳によって二人とも傷を負わずに済む。が、

 パサッ!

 祐巳とのトレードマークとも言えるツインテールの片割れが祐巳の頭から離れ地に落ちる。だが祐巳に後悔も無ければその事を気にする余裕も無い。

「桂さん、私にはどんなに傷付いたって構わない。私は多くの人を傷付けたのだから当然の報いとして甘んじて受け入れるつもりよ。でも瞳子ちゃんを傷付けるのだけは許さないよ!!」
「ゆ、祐巳さん………どうしてそんな女を守ろうとするの?もとを糺せば全部その女の所為なのよ」
「確かに桂さんの言う通りかもしれない。瞳子ちゃんも同じような事を言っていたからね。でも私は全ての責任が瞳子ちゃんにあるとは思えない。きっと私にも同じようにこうなってしまった責任があると思う」

 そして何よりこんな祐巳を命がけで守ろうとしてくれた瞳子を見捨てれるわけが無い。祐巳は瞳子を庇うように両手を横に広げ、桂に指一本触れさせないよう睨む。

「それに以前はどうであれ今の私にとって瞳子ちゃんは大事な後輩であり、大事な友達よ。そんな瞳子ちゃんを傷付けるなんて例え桂さんでも許さないから!」
「ゆ、祐巳さま………」
「そ、そんな………私は、私だけは祐巳さんの事を第一にしてきたのに………」

 ――――本当は傷付けるつもりなんて無かった。ただ売り言葉に買い言葉で引っ込みが付かなくなった、自身の感情の昂りが抑えきれなくなっただけ。

「私よりその女を選ぶというの?」

 ――――だがそれでも最後は許しを請い、結果として自分の元に帰ってくるというささやかな期待があった。だがそれも瞳子に邪魔をされ、今ではそれさえも排除できない自分に気付く。

「誰を選ぶとかじゃないよ。理屈抜きに私は瞳子ちゃんを守りたい、ただそれだけよ」

 ――――もう私では届かないのだと、どうあっても私では彼女の隣にはいられないのだ………

「桂、貴女の負けよ」
「お、お姉さま!?」
「祐巳さん、それに瞳子さんだっけ?桂が迷惑かけただけじゃなくこんな怪我までさせてしまった事、姉として深くお詫び申し上げます」
「あ、はい………」

 祐巳でさえ見た事の無かった桂のお姉さまの登場に戸惑いを隠せない面々だったが、お姉さまを前に落ち着きを見せた桂に一安心する。

「私はただ祐巳さんの傍に、傍に居たかったんです………」
「うん、分かってる………」

 言いたい事は山ほどあった、一度や二度引っぱたいた位では気が済まないと今でも思っている。だが人目も憚らずお姉さまに泣きつく桂を前に由乃は何もいえなかったし、それは祐巳たちも同様だった。

「祐巳さん、行く所が………と、その前に救急車を呼んだ方がいいかしら?」
「い、いえ多分そこまで深くないと思うから大丈夫です。多分………」
「祐巳さま、でも血が………」
「言わないで〜〜〜!!必死に痛みから意識をそらせようとしているんだから!」

 興奮が冷めた今、忘れかけていた痛みが徐々に蘇ってきているのだ。だが一応上級生として下級生の前で醜態を曝さないよう必死に強がっていたのだ。もっとも無駄な努力となってしまったようである。

「本当なら上級生である私が連れて行くべきなんだろうけど………由乃さん、この二人を病院に連れて行ってあげて。後は私がうまく誤魔化しておくから」
「分かりました。二人とも、傷口はハンカチで押さえてまずは病院に行くよ」
「祐巳さま、血が、血が!!」
「瞳子ちゃんこそ、血が、血が!!」
「………………………」

 パンッ!パンッ!

「はいっ!キビキビ歩く!」
「さ、サー、イエッサー………」
「し、失礼しました上官殿………」

 何はともあれ祐巳と瞳子は小笠原邸に向かう前に由乃に連れられて病院へと向かうのであった。







          ◇   ◇   ◇







「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ」
「ごきげんよう」

 梅雨も明け澄み切った青空に今日も朝の挨拶が木霊する。その中に元ではなく現紅薔薇のつぼみ福沢祐巳はいた。

「ごきげんよう、祐巳さん。もう本調子って感じだね」
「ごきげんよう、由乃さん。その節は色々と迷惑をおかけしました」
「うむ、その恩に報いる為にも今日は祐巳さんがお茶を入れてくれるかのぅ」
「ははぁー、不肖ながらこの祐巳、責任持ってその大任受けさせてもらいます」

 等と冗談も言い合いながら山百合会幹部は以前のように戻る事が出来た。もっとも変化はそれなりにある。

「ごきげんよう、祐巳さん、由乃さん」
「ごきげんよう、祐巳さま、由乃さま」
「あら、白薔薇姉妹のお出ましね。何だか色々あった所為で新婚夫婦をからかう機会を逃してしまったわ」
「由乃さん、志摩子さんたちはからかっても素で返されるだけだよ」

 その変化の一つが志摩子にようやく正式な妹として乃梨子が白薔薇のつぼみになったことである。本当ならもっと早くにこの事はリリアンかわら版で話題になるべきだったのだが、例の事件の所為で最近になってようやく正式に発表と言う形になったのだ。

「甘いわよ、祐巳さん。一見クールで淡白そうな乃梨子ちゃんだけど、その実ちゃっかりこの土日で志摩子さんの家にお泊りしていたのよ」
「ど、どうしてそれを!?」
「そして若い女が二人一夜を過ごすのに何も無いと思う?いいえ、そんな事ありえないわ!きっとあんな事やそんな事をしていたに違いないわ!!」
「「そんな事してません!!」」
「由乃、今でも十分からかっているじゃない」
「そうね、由乃ちゃん相手では志摩子もお手上げのようね」

 そして些細な変化の一つが祥子と令である。以前に比べ最近では何かと言えばよく二人で居る事が多くなっているのだ。

「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう、祐巳。今日も賑やかね」
「まぁ由乃さんですし」
「それもそうね。それより祐巳、タイが曲がっていてよ」

 プライドが高く今まで何でも自分の考えを貫き通していた祥子だったが、今回の一件で懲りたのかよく令と相談するようになったのだ。もっともそれは『薔薇さま』としてではなく『姉』として、の相談である。そして令もまた由乃の成長と自主性を尊重する為に良い意味で由乃と距離を置く為に祥子と一緒にいるようになった。

「令ちゃん、今日も祥子さまと一緒なのね」
「え、うん。祥子と一緒に今度の夏休み妹とどう過ごすのか相談していてね」
「そ、そうなんだ。なら良いんだけどね」

 そしてそれは由乃も理解しているのだが、やっぱりどんな理由があろうと令が他の女性と一緒にいるのは気に入らないようである。頭では理解しているが心が納得できていない、由乃は難しいお年頃なのだ。

「はぁ、それにしても祐巳のタイを直すついでにリボンを直し、祐巳の髪を堪能する楽しみがなくなったのは今でもショックだわ」
「ちょっと祥子、ちょっと危ない人みたいだからそう言う事は口にしない方がいいよ」
「お、お姉さま、髪はその内伸びてきますから気長に待っていて下さい」
「はぁ………」

 もう一つの些細な変化は祐巳の髪型である。二つのリボンで左右それぞれ髪を縛ったツインテールは今はどこにも無い。もっともそのことを気にしているのは目の前のちょっと危ない性癖を持つお姉さまだけで、祐巳も含め多くの人間は今の髪型が気に入っているのでたいした問題でないだろう。

「ご、ごきげんよう、祐巳さま」
「ごきげんよう、瞳子ちゃん。腕の傷はもう大丈夫なの?」
「はい、祐巳さまの傷も痕に残らないようなので一安心です」

 そして最後の変化が祐巳の妹疑惑である。最近では祥子と一緒にいるより瞳子と一緒にいる時間が長いのだ。もっともまだロザリオを渡していないし、二人を知る者たちからしてみれば

『瞳子って意地っ張りだから自分から妹にして下さいとはよう言えないから姉妹になるのはまだまだ先だと思う』
『祐巳さんって押しが弱いから何か大きな転機でもない限りロザリオを渡せそうにないね。下手をすると学園祭までお預けかしら』

 との的確な分析があるのであまり気にはしていない。

「本当に良かったです。祐巳さまの怪我も出血の割りにたいした事無かったですし、何より祥子お姉………紅薔薇さまとの記憶を思い出すことが出来て………」
「別に言い直さなくてもいいよ。昔からそう呼んでいたんでしょう?私たちの前でなら好きに呼んでもいいよ」
「いいえ、ケジメは大事です。それに紅薔薇さまを『お姉さま』と呼んでいいのは祐巳さまだけですから」

(それに私が『お姉さま』と呼びたい人は………)

「ん?何か言った?」
「い、いいえ!なんでもないです」

 全てを受け入れ過去を乗り越える事が出来た祐巳。そしてあの時瞳子を庇っただけではなく、今もこうして普通に付き合ってくれる祐巳。瞳子はそんな祐巳の傍にいられるだけで十分なのだ、少なくとも今は。

「そうだ♪瞳子ちゃん、夏休みの前半は特に予定ないしどこか遊びに行かない?」
「え?夏休みですか、でしたら私の別荘に来ませんか?」
「別荘ってもしかして海外?」

 忘れがちだが瞳子は祥子の遠縁で小笠原ほどではないものの、祐巳からしてみれば十分金と力のあるお家である。なので海外に別荘の一つや二つ持っていてもおかしくないと思うのは当然の反応であろう。

「無いことも無いですが祐巳さまパスポートお持ちではないですよね?なので国内で富士山のよく見える避暑地にしようと思っています」
「だったら一安心ね。私パスポートの仕組みとかよく分からないから正直助かるよ」
「って、瞳子ちゃん!祐巳は私と別荘に行くのよ、コソ泥のように横取りしないで頂戴!!」

 せっかく令との相談した結果、今年の夏は祐巳と別荘でイチャイチャしようと決めていたのだ。だが、

「そうだったんですか?でももう瞳子ちゃんと約束したし………また今度誘ってください、お姉さま」
「ガーーーーーーーーン!!瞳子ちゃんに負けるなんて………」
「ロ、紅薔薇さま、ほら私たちの別荘はそんなに離れていないからいつでも遊びに来れますよ」

 祐巳は祥子より瞳子を優先し、何気に瞳子も祐巳を別荘に招く事を譲るつもり無いようである。

「まぁ一人ずっと引き篭もっていた祥子さまと、命懸けで祐巳さんを守ろうとした瞳子ちゃん………どっちが上かなんて言うまでも無いよね」
「由乃、何も止めを刺さなくても………」
「うぅ………祐巳と二人っきりのバカンスが………」
「瞳子ちゃん、別荘にはいつ行く?」

 一人イジケル祥子を置いて祐巳の心は別荘で一杯のようである。

「あの、紅薔薇さま放っておいて良いんですか?」
「いいのよ、別にこんな事で駄目になるほどヤワな関係じゃないから。むしろお姉さまには良い薬よ」
「すっかり逞しくなりましたね」

 祥子と再開した時、祐巳は全てを思い出すことが出来た。祥子のことを信じれなくなり、そして傷付くのを恐れて自分から祥子と向き合う事から避けていた事、そして最後には逃げ出してしまった過去を………

「そうなの?自分ではよく分からないけどね」

 だからこそ祐巳は祥子にロザリオを返したあの日、全てから目を背けた。容赦なく降り注ぐ雨の中で独りでいる事を選んだのだ。

「ただ何もしないまま後悔なんてしたくないからね。だったら今を思い切って謳歌するのが一番でしょう」

 だが止まない雨がないように祐巳は多くの者たちの支えと叱咤の末、自ら現実と向き合うようになったのだ。

「………じゃあ瞳子も楽しまないと損ですわね」
「そういうこと、だからうんと楽しもうね♪」
「はい♪」
「祐巳ーーーーーーーー!カーーーーームバーーーーーーーック!!」

 そう、長く降り続いた雨は止み、リリアンに本格的な夏が始まろうとしていたのだ………












 あ と が き

 いやはや思いつきで始めたこの企画、当初は『合縁奇縁』と違い2〜3話で短くまとめるつもりが桂さんを持ってきた事でちょっと長引きました。恐るべし、桂さん(苦笑)。
 さて今回この作品でレイニーブルーのバッドエンド的な話を書きたかったのですが、桂さんを出す案が出た辺りで別の作品として考案していた案を混ぜる事になりました。その案とは原作におけるパラソルをさしてで私が抱いた不満点を解消するものでした。そして時にみなさんはこう考えたことはありませんか?

『レイニーブルーであれだけ盛り上がっていながら最後の仲直りは結局外野のお膳立てか』

 『卒業しても祥子のお姉さま』そう言いきる蓉子さまは確かに素敵でしたが、景さまの一室や弓子さまで祐巳が自分で立ち直ろうとしたのにその後の展開は流されるまま………理想は自分から祥子の元へ行く事、あるいは今の山百合会のメンバーに送り出されるかお膳立てであるのが一番でした。
 前者であれば本当の意味で祐巳の成長を垣間見る事が出来、後者であれば新しい山百合会幹部の絆を深める事が出来ます。ですが実際はOGである蓉子さまがそれまでのエピソードを無視するが如く強引に仲直りに持って行っています。

 確かにその後は綺麗に終っています。ですが本当にそれで良いのか?そういう疑問を常々抱いていました。だからこそこの作品(降り止まぬ雨に組み込まれたお話し)では祐巳に自ら和解をしに祥子の元へ行けるよう成長する姿を描きたかったのです。そして成長と言えばもう一人の主人公瞳子も同様です。祥子を立ち直らせる為に祐巳を利用しようとした、だが祐巳と触れ合い過ごす日々や桂の中に自分の姿を見る事で瞳子もまた、自ら変わろうとする所を描こうとして出来たのがこのお話しでした。

 そして最後に一言、桂さんは決して噛ませ犬なんかじゃない!彼女はただ祐巳を愛し、その愛が歪んだ道へと歩ませてしまっただけなのです。このような作品を作っておきながらこう言うのもなんですが、桂さんのことを嫌わないであげて下さい。それが私のささやかな願いです。

 ではみなさま、最後までこの作品にお付き合い頂きありがとうございました。またの作品を楽しみにしてください。ではでは〜




















 第四話


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